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「ムンド デ アレグリア」はスペイン語で「歓びの世界」という意味です

すべての子供たちに学ぶ歓びを

“どうして、あなたが外国人学校をつくったの?” これは初めて会う人に決まって聞かれることです。私が日本人だからです。その問いにお答えします。こちら→

          校長 松本雅美

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 ここには、子どもたちのとびきりの可愛い笑顔が弾けています。この子どもたちは自分の意志でここにいるわけではありません。出稼ぎの親に連れられて、わけもわからず日本にやってきた子どもたちです。「あれ、日本人?外国人学校なのに」と思われるかもしれません。子どもたちの「顔」の多くは日本人だからです。子どもたちは日系人です。「顔」は日本人でも、ほとんどが日本語のわからない親をもち、自身の母語は日本語ではありません。つまり日本語は彼らにとって外国語だし、日本は外国です。
 突然これまでと全く違う世界にほうり出され戸惑う子どもたち。幼稚園や学校にも行けません。行っても日本語がチンプンカンプンで授業を理解できるはずもなく沈んでいく子どもたち。私は小さい頃、親に「勉強をできないのを環境のせいにするな」と叱られました。でも、それは日本の子どもだからいえることです。「環境のせい」で勉強ができない子どもたちに、私も7年前に出会いました。それが私の人生を変えることになるのですが。
 幼児期には幼児期の遊びが、小学生には小学生の、中学生には中学生の学ぶべきことがあります。世界のどこにいても、子どもたちが今学ぶべきことを学べるようにする。それが私たち大人の責務と考えます。子どもに、大人の都合で「学習の空白時代」を作ってはならないのです。その子の能力の問題ではなく、言葉の問題で学校に行けない、勉強についていけない、ひいては将来に夢がもてないという状況はなくさなければなりません。そこで当校では、教科は母語で教えます。例えば、理科に「光合成」というのがありますが、この概念を「外国語の日本語」で理解するのは彼らにとって至難の技です。これが、公立学校でよくみられる「日常会話がぺらぺらだけど学校の勉強はさっぱり」の原因です。母語で理解するのは容易なのに。
 一人ひとりの子どもが自らの将来に夢がもて、自分の未来は自分で選択し切り開いていけるように!また共生社会を担い、リードする人材に育つように!ムンド デ アレグリアの挑戦が続きます。 
 

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うれしいな!子どもたちはニッコニコ!立派な校舎になりました!

ムンド デ アレグリア学校は移転しました

2010年1月18日  盛大に移転開校式が行われました。ムンドデアレグリア学校.jpg

浜松市に深く感謝します。ご支援くださる皆様、ありがとうございます。

 悲願であった広い校舎、それがついに実現しました!浜松市との合併で空き庁舎となっていた浜松市西区旧雄踏町役場跡に浜松市が「外国人学習支援センター」を開設。その2階を当校に貸してくださいました。当校のような外国人学校が公的施設を貸与される例はなく、全国初です。外国人集住地区である浜松市の「多文化共生」施策の意気込みを見ました!浜松市は当校設立当初、よちよち歩きの時より親身になって応援してくださっています。浜松市に感謝すると同時に、教育分野で当校が果たしてきた社会的役割を高く評価していただいた証であると自負するものです。

松本雅美校長 共生社会をリードする人に育て!
 

校長あいさつ 「先生、学校をつくってくれてありがとう」これは学校設立1周年を迎え、私がドン底にいた時に生徒たちから言われた言葉です。その子どもたちの笑顔と言葉を心に刻み、それをエネルギーにして今日ここにいます。このような素晴らしい学習環境を整えていただいた浜松市、ご支援を頂いたみなさまに、6年前、私が子どもたちからもらった感謝の言葉を、今、あのときの子どもたちと同じ気持ちで申し上げます。ありがとうございました。子どもたちが誇りをもって学ぶことができるこの校舎で、一人でも多くの子どもたちに「学ぶ歓び」を!を合言葉に、より充実した母語教育と日本語教育を実践します。一人ひとりの子どもが将来に夢がもて、自分の未来は自分で選択し切り開いていけますよう、また共生社会を担い、リードする人材の育成にまい進します。それが皆さまのご恩に報いるものと思います。
 

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鈴木康友浜松市長が祝辞の先頭を切って、松本校長のこれまでの労をねぎらい、心強いご支援のお言葉をくださいました。祝辞はカプニャイ ファンカルロスペルー共和国特命全権大使、ルイス セルジオ ガマ フィゲイラ在浜松ブラジル総領事館総領事、川勝平太静岡県知事、城内実衆議院議員と続き、スズキ株式会社 鈴木修取締役会長、学校法人国際ことば学院 末續晨一郎理事長より寄せられた祝電が披露されました。
 
 
保護者代表 小松愛子イレーネさ 「この学校で救われた」
 

hogosha.jpg 「開校式でぜひ、ムンド デ アレグリア学校への感謝の気持ちを言わせてほしい」と日系ブラジル人の小松さん。小松さんは、浜松市から車で約1時間の袋井市在住で、二人のお子さんは電車通学をしています。保護者代表として挨拶した小松さんは、「学校は遠いけれども、今、子どもたちが元気に学校に行けて本当にうれしい」と最初に述べ、そして公立学校でイジメにあい16ヶ月間も家に閉じこもり「いのちの電話」に電話するほど辛かった時期のこと、この学校にきてから子供たちがみるみる元気を取り戻し救われ感謝していること、この学校は素晴らしい、と涙ながらに熱く語りました。
 

生徒代表 ケプレル ナオロ ガルシア カタヤマくん 「学校っていいな」
 

katayama.jpg 最後に生徒代表として、ケプレル ナオロ ガルシア カタヤマ君が、「広くきれいな校舎になってうれしい。生徒はみんな喜んでいます。ありがとうございました」とお礼を述べ、それから、親の失業で学校に行けなくなり弟と5ヶ月間家にこもっていたこと、ある日それを知った松本校長から電話があり「家にいるなら学校においで。お金の心配はしなくていいから」と言われ、また学校に戻ってきたこと、学校で友だちや先生と一緒に勉強できることが楽しくてしかたがないことを語りました。参列者の方々は、うなずきながらケプレル君の話を聞きかれ、大きな拍手をされました。 

 
 
開校式お楽しみ会
 開校式の後、2階の広間でお客様に学校行事の写真のスライドショーと民族衣装に身を包んだ小学生のペルーの踊りを、ブラジルとペルーの軽食をつまみながら楽しんでいただきました。ブラジルのコシニャ、エンロジャドデカルネやペルーのエンパナダ、カウサをはじめとする両国の代表的な軽食は、すべて当校職員とその家族が作ったものです。お客様は目にも美しい皿をのぞきこまれて興味深々のご様子。口に運ばれると「美味しいね~」と目を丸くされました。
 
 
 
 
ご寄付ありがとうございました
飛ぶように売れた笑顔満載ムンド デ アレグリア福招きカレンダー 
開校式後、来賓の皆さまに当校の現状を訴え、子どもたちの図書を買う資金援助のご協力をお願いしました。楽しみ会会場にて販売する2010年当校特製カレンダーを1部千円でお買い上げいただくと750円が寄付になり、それで子供たちのための図書を購入するというものです。昨今の世界的不況は当校をも直撃し、保護者の失業で、学校を続けさせるためには授業料免除や減額をせざるをえない児童生徒が激増しました。このことがただでさえ厳しい経営をさらに圧迫し、子供たちに読ませたい図書が買えないのです。
 
そして2階に行くと、お客様は待ってましたとばかりにカレンダーを買ってくださいました。「協力するよ」とみなさんおっしゃり、中には一人で5部、10部とご協力くださる方も。全校生徒の可愛い姿が、今年福を招きます。みなさま、本当にありがとうございました。また、在庫がございます。これからの方はまだ間に合いますので、ご連絡お待ちしております。
 
お隣のおまわりさん、ありがとうございます。なんと5部もご協力いただきました。

 

<古い校舎はこんなでした>

卸商団地内の事務所跡を教室に改造して学校にしたものでした。廊下ですれ違う際、ぶつかるほどの狭さで体育館どころか子供たちの遊ぶ場所もなく、子供たちは昼休みに玄関前のほんのわずかな空間にひしめき合ってゲームをしたりおしゃべりをしたりしていました。生徒が増えるに従って教室を増やし改造に改造を重ねた教室には、一部窓もない穴倉のようなものさえありました。約100人の生徒が使うトイレは男子用女子用ともに2つずつしかなく、手を洗うにも昼食後歯をみがくにも、トイレの中の小さな手洗いかトイレ前にもう一つあるところで順番に。こんな「ないないづくしの校舎」でも子どもたちは楽しそうでした。しかし、不憫でした。
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”どうして、あなたが外国人学校をつくったの?”
初めて会う人に決まって聞かれることです。私が日本人だからです。
その問いにお答えします。


ムンド デ アレグリア学校の挑戦

校長松本雅美

1.私と日系人との出会い
 私は、1991年浜松市の大手自動車メーカーに入社しました。そこで日系人の採用担当兼通訳の仕事をするようになったのが日系人との最初の出会いです。
 1990年、日本は入管法を改正し中南米の日系二世、三世に労働できる合法的な在留資格を与えました。当時日本は恒常的な人手不足で、中南米にいた多くの日系二世、三世たちが、国の不安定な経済状態から脱出するため、出稼ぎ目的で来日してきました。その頃、私の勤める自動車メーカーでも人手不足でした。日本はバブル期の増産体制で、企業が労働者を奪い合うような状況でした。全国的に募集する期間工もなかなか採用ができない状況に加え、高校を卒業し入社してくる新卒者たちの定着率が低く、入社して一年以内で辞めていく人も少なくなかったのです。このような状況の中、定着率のいい、長く勤めてくれる人材を確保するのが急務であり、ペルー、ブラジルから直接採用することになりました。
 私たち採用チームは、空港での出迎えから仕事の内容、日常生活についてすべてを担当することになりました。日系人(日本人の子そして子の子)であっても日本語を話せる人は少なく、ましてや日本の習慣はわからないし生活スタイルも違っていたのです。ですから、私たちの仕事の大半はいかに日本の生活に慣れ、仕事をしてもらうかという、生活のサポートでした。当時は本人たちも出稼ぎ目的ですから子供連れで来る人はなく、また二、三年で帰国を考えていました。来日して二、三年で帰国した人たちもいましたが、その後本国に帰っても本国での生活が安定せず、日本で働けば本国の何十倍ものお金が稼げるとあって、次第に定住する人たちが増えてきました。又在留資格の更新についても期限がなく、さらに永住ビザの申請条件の緩和も定住、永住する人たちを加速させました。定住、永住傾向になると、日本での社会保障(保険、年金)の問題、そして子供の教育の問題等が深刻化してきました。保険、年金の問題は、1990年前半はまだ大企業の直接雇用が多かったので、ほとんどの人たちが社会保険を持っていました。しかしバブル崩壊後、直接雇用から派遣会社による間接雇用へと移行していく中で、派遣会社の多くは社会保険適用事業所であっても外国人労働者に社会保険を適用しているところは少なく、又労働者側でも社会保険を持つことにより手取りが減るということで自ら好まない人もいて、社会保険を持たない人が増えていきました。社会保険適用事業所で働いている場合、国民保険の適用を受けられません。生身の体ですから保険がないという状態はとても不安定な状態といえますし、子供にあっては病気になる確率は高く深刻です。実際、当校に在籍する生徒の約7,8割が無保険状態です。年金についても、あくまで日本人対象のものとして作られていますので、日系人の人たちがそこに価値観を持つことは難しいようです。保険については入国前に在外公館でのビザ発給時に健診を義務づけること、派遣会社への指導を徹底すること等の対策が必要だと思います。年金に関しては、本国に帰国した場合3年を限度に掛けた金額の何割かを返金してもらえるようになりましたが、この対応は完全なものではなく、定住する日系外国人と帰国を考えている人と分けるような形での対策が必要であると思います。
 
2.問題だらけ、深刻な子供の教育問題
定住傾向になる人たちが増えてくると、本国に残してきた子供を呼び寄せるようになりました。子どもが小さい頃は、それほど問題は深刻でないのですが、子どもが小学校に入学する頃になると二つの選択肢を迫られます。まずその一つが、子どもを本国に返し母語での教育を受けさせるということです。この場合、子供だけ帰国させ両親は引き続き日本で仕事をするのがほとんどで、子どもは親戚に預けられることになります。小中学校の一番親とのかかわり、特に母親とのかかわりが大事な時期に親子が離れ離れになってしまうので、深刻な問題が生じます。何年も離れていれば親子関係は希薄になり、中には「親に捨てられた」と親を恨む子どもまで出てきました。当校での例では、8年ぶりにペルーから両親の元へやってきて、母親をお母さんと呼べない子どもがいました。また、親の方も長く手放していた後ろめたさから躾けをできず、なんともギクシャクした親子関係に親子双方が悩んでいました。
他方、両親と日本に残り日本の公立学校に入学する場合、両親はほとんど日本語が話せないので日本語は全くの外国語です。子どもは、「日本語という外国語」で学習しなければならないため授業が理解できず、ほとんど身につかないという大問題が生じます。少し日常会話ができるようになっても学習上必要な学習言語能力は全く育っていない状況があります。その子どもの能力ではなく、言葉の壁で学業不振に陥るのです。また、同級生である日本人の子供たちとの文化、習慣、言葉の違いから、圧倒的少数派の日系人の子どもたちは「いじめ」にあう例も少なくなかったのです。実際当校に日本の学校から転入してきた子どものほとんどが、「いじめられた」経験をもっています。「いじめ」にあったり、学習不振におちいり公立学校から離れていく子供も少なくなかったのです。運よく中学までいても高校進学できるのはわずかな子供たちだけです。その多くは進学を諦め就職するようになります。早くに働きだした子どもたちの中には、非行に走る子どもも少なくなくなかったのです。さらに不幸なケースは、親子の会話が成り立たなくなることです。日本の学校に通う場合、親がよほど家庭において意識的積極的に母語を教えていかないと母語を喪失し、親と子が普通の会話すら出来なくなってしまいます。一般的には想像しにくいと思いますが、家庭内で、しかも親子間で言語の壁が生じるのです。コミュニケーション手段の乏しい親子は、互いに理解しにくくなり、それは悲しい状況です。

3.ムンド デ アレグリア学校設立のきっかけ
 このような状況の中、2002年10月、在東京ペルー総領事館が後援する教育フォーラムが、ペルー人の集住都市である東京都町田市と静岡県浜松市において開かれました。本国ペルーの学校の教師たちが「日本に出稼ぎに行っている親たちの子どもが大変だ。帰国しても学校の勉強についていけないから何とかしてほしい。出稼ぎに行っている親たちの教育をしてほしい」とペルー本国の教育省にお願いしたからです。それは、日本に出稼ぎに来ている親たちの多くが子供の教育にあまり関心を持たず、どうせ帰国するのだから、と学校に行かせなかったり、ひどいケースになると、家で下の子の子守をさせたりしていたのです。その親たちに子供の教育にもっと関心を持たせ、子供の将来を閉ざさないよう親を教育するためにペルー教育省から人が送り込まれました。当時私は、ボランティアで領事館の仕事をお手伝いしていたこともあり、その教育フォーラムのボランティアスタッフになりました。浜松市でのフォーラムの後、出席していた父兄の何人が子どもの教育上の悩みを切々と訴え、「マサミ、学校を作ってくれないか。母語で学べる学校があれば助かる」と私に涙ながらに言うのです。私は、困りました。どうしたものか。それが、程なくこのムンド デ アレグリア学校を産むこととなるのです。

4.設立から認可まで
 2003年2月開校から現在までの道のりは、とても言葉では言い表せません。私は開校にあたり、この事業は行政が携わるべきものであるから行政側からの支援が受けられるものと期待していました。今思い起こせば、全く無知のまま考えなしに開校してしまったと言えます。あれこれ心配し考えていたら開校できなかったでしょう。現実は厳しく、私塾のカテゴリーにしか入らない当校は、場所も貸してもらうことも出来ず、苦難の道のりでした。一人でも多くの子どもに学んでほしいため、月謝を出来るだけ下げて保護者の負担を軽くしようとしました。しかし、どこからも補助金はなく赤字はふくらむ一方。自分の貯金を切り崩し、二年間無給で働きながら、とにかく公的認可をとって助成金を受けようと考えました。月謝を下げることができるようにです。文科省、静岡県、浜松市と何度も何度も足を運びましたが、各種学校認可条件の「自前の校地校舎でなければいけない」という項目により、認可はほぼ不可能だと思われました。その間、約60名の生徒が月謝を払えず辞めていきましたが、私個人の力など小さなもので、それを唇を噛んで見送るしかありませんでした。「この子たちはどうなるんだろう」と、やめて行く子どもの先行きを思うと、涙がでました。
 2004年4月、私たちが内閣府よりNPO法人格を取得した同じ頃、浜松市国際課の尽力のお陰で静岡県が認可基準である「自前の校地校舎でなければならない」という条件を緩和してくれました。これは静岡県独自の判断で、「静岡方式」と呼ばれることになります。それにより私たちは、2004年5月各種学校認可を申請し、2004年12月南米系外国人学校としては全国で初めて各種学校の認可を受けました。設立以来約2年、ようやく月謝を下げることが出来、一人でも多くの子供たちを受け入れることが出来ると喜んだのも束の間、市からの補助金が年額145万との連絡を受けました。気持ちは急降下です。その金額では、それまで毎月赤字でやってきた経営状況の中で、月謝を一人千円下げるのがやっとです。私たちが望んでいた一万円台に下げることは不可能で、これ以上継続は無理とおもいました。断腸の思いでしたが、先に道はありません。閉校することを決心しました。それが2005年1月、在籍生徒数14名の時でした。私が閉校することを決めたことが、ある企業のトップの方に伝わりました。それまで私たちがやってきたことを無に帰すべきではない、と地元企業に働きかけをして下さいました。そして、2005年3月、地元企業53社から2000万円の寄付が決まりました。地獄に仏をみた、と思いました。この支援により私たちは月謝を下げ、14名だった生徒が月謝を下げた3月末には50名となり、2005年8月学校法人の認可を受けることとなりました。 

5.現在抱える問題
現在、在籍生徒数は約100名です。月謝は幼稚園、小学生が15000円、中学、高校生は20000円です。外国人学校としては相場の約半額で、さらに保護者の失業などで授業料免除、減額としている児童生徒も数十人います。そのため毎月150万ほどの赤字となり、地元企業から寄付を頂き何とかしのいでいる状況です。この不安定な経営を改善するのが第一の課題です。
 私たちは、言葉の問題や文化、習慣の違いにより日本の学校に行けない子供たちや、ドロップアウトした子供たちが少なくとも母語により本国のカリュキュラムを終了することにより、本国に帰国した際に問題なく転入でき、進学できることはもとより、日本にある外国人学校として日本語習得は不可欠であると考えています。日本語教育には設立以来ずっと力を入れたかったのですが、経済的理由で充実出来ず、ようやく今年から小中学生を年齢とレベル別に分けてより充実した日本語教育に取り組んでいます。体育のある木曜日以外の毎日午後は日本語の授業となっています。特に日本の学校から転入してきた子供たちの多くがセミリンガル(母語も日本語も中途半端)傾向にあり、母語より日本語を中心に会話が出来るのですが日本語の読み書きの力が乏しく、読解力についてはほとんど厳しい状態です。そして母語を喪失仕掛けており、必修授業の母語クラスでも正規の授業に入れない状態です。私は、今でも一人の生徒が残していった言葉を忘れることが出来ません。その生徒は小学一年生から五年生まで公立学校に通い、ムンド校設立とともに小学五年生で転入してきましたが、経済的事情で一年も経たないうちに辞めざるを得ない状況になりました。辞めていく時に私に「先生、僕はペルーに帰っても外人と言われるし日本にいても外人と言われるんだ。日本の学校に行ったって座っているだけで何も覚えることが出来ない」と言いました。全ての外国人児童がそうであるわけではないのですが、少なくともそのような子供が少しでも増えることがないよう、大人たちが環境を整えることが急務であると考えます。第二言語としての日本語習得にとっても母語習得は非常に大切であり、核となる言語となるのが母語です。

6.ムンド校の目指すところ
私たち外国人学校は、母語教育、母語文化を教えることにより、子どものアイデンティティーを確立させることが出来ます。ただ日本語教育の面ではまだ足りないところが多くあります。日本の学校の場合、母語教育、母語文化の継承はほとんど無理です。そのお互いの足りない部分を補い合い、子供たちの将来のために協力することが理想の形であると考えます。又現場に居て実感としてあるのは、言葉がわかっても理解出来ないことがたくさんあるということです。ですから、ペルーの子供たちはペルー人の先生たち、ブラジル人の子供たちはブラジル人の先生たちが指導にあたっています。そして、日本の子供たち、地域の人たちと積極的にかかわることにより、相互理解を深めるように努力しています。
 私たちの学校は、子供たちが勉強する場所であるとともに、子供たちが少しでも精神的に楽になる場所でありたいと願っています。私がペルーの女の子に家庭教師をしていた頃、教える時間の半分が彼女の学校での悩み相談になっていたように、日本に出稼ぎに来ている親についてきている子供たちは、それぞれ悩みを抱えています。その悩みを親に話せるうちはいいですが、親が仕事が忙しく時間がなかったり、子供が日本語の方が上達し親との会話が成立しなかったり、日本の教育現場を知らない親が子供の学校での悩みを理解できなかったり、どうせ親に話したってと自ら悩みを抱え込んだりと、子供のおかれている状況は様々です。当校には心理学を専門にカウンセリングの出来る教師、母親の立場に立って悩みを聞ける教師が子供の悩みに対応しています。日本の学校でも先生たちが悩みを聞いてくれるでしょうが、そこにはやはり国境があることは否定できないと思います。私自身、言葉を理解してもわからない部分があるからです。やはり母国の先生が悩みを聞いてあげられるのが、より子供の悩みを理解できるのではないかと思うのです。子供には我慢をさせることは大事ですが、その我慢の内容にも気をつけていかなければいけないと思うのです。

7.子供をとりまく親が抱える問題
 大人側の言葉の問題ですが、在日が長くてもなかなか日本語が上達してないようです。当校でも日曜日に日本語教室を開講していましたが、最初は皆意欲をもって参加していても、一人減り二人減りと結局誰も来なくなりました。その原因には二つあると思います。一つはその必要性があまりないからです。1990年代前半、移民が始まった頃は現在のように市役所、病院、職安どこに行っても通訳はいませんでした。当時通訳を担当していた私は色々なところへ同行して行きましたが、通訳一人では全員に対応出来ません。ですから、カタコトでも覚えるしかなかったので、その当時の人たちは勉強したり日本語教室へ通っていました。その後来日する人が増え、次第にペルー人コミュニティー、ブラジル人コミュ二ティーが出来、買い物も困らなくなり、市役所に行けばほぼ各部署に通訳がいて、通訳がいる病院もでてきました。仕事も直接雇用から間接雇用に移行し、派遣会社の多くは担当者として通訳の出来る人を置いているので困ることがあまりないのです。
また二つ目としては、バブル崩壊後人手は売り手市場から買い手市場へとなり、賃金も下がり、少しでも稼ぎたい彼らに打撃を与えました。それで、土曜日に仕事をしたり、残業を好んだり、ひどい場合は一日も休まず一週間仕事をし続ける人まで出てきました。そして、何かの都合で休むと解雇されるという不安定な状況となってきたのです。そうなると、あえて休む時間を費やして日本語を学ぶということはしなくなり、しなくてもいい環境が出来てきたわけです。
 しかしながら、彼らはおそらくこれからも長く在日していくでしょうし、私たちの隣人となり市民であるわけで、その彼らに日本語を伝え、更に日本文化、習慣を伝えていくことは必須だと私は思います。それは、私たちが外国の人たちと共に生活するために不可欠だと考えます。又逆もそうです。私たちが彼らの文化を学び言葉を知ることも相互理解を早める一歩かもしれません。

学校法人 ムンド・デ・アレグリア
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”どうして、あなたが外国人学校をつくったの?”
初めて会う人に決まって聞かれることです。それは私が日本人だからです。

 
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1.私と日系人との出会い
 私は、1991年浜松市の大手自動車メーカーに入社しました。そこで日系人の採用担当兼通訳の仕事をするようになったのが、日系人との最初の出会いです。
 1990年、日本は入管法を改正し中南米の日系二世・三世に労働できる合法的な在留資格を与えました。当時日本は恒常的な人手不足、一方中南米は不安定な経済状態にあったため多くの日系二世・三世たちが、出稼ぎ目的で来日してきました。
その頃、私の勤める自動車メーカーでも人手不足でした。日本はバブル期の増産体制で、企業が労働者を奪い合うような状況でした。全国的に募集する期間工もなかなか採用ができない状況に加え、高校を卒業し入社してくる新卒者たちの定着率が低く、入社して一年以内で辞めていく人も少なくなかったのです。このような状況の中、定着率のいい、長く勤めてくれる人材を確保するのが急務であり、ペルー、ブラジルから日系人を直接採用することになりました。
 私たち採用チームは、空港での出迎えから仕事の内容、日常生活のすべてを担当することになりました。やってきた日系人(日本人の子そして子の子)は「顔つきは日本人」であっても日本語を話せる人はごくわずかで、ましてや日本の習慣はわからない「外国人」でした。ですから私たちの仕事の大半は、いかに日本の生活に慣れてもらい仕事をしてもらうか、という「生活サポート何でも屋」でした。「マサミさん、マサミさん」と電話は休日も容赦なく鳴り、そのたびに私は飛んでいきました。忘れることのできない悲しい出来事もありました。出稼ぎの親のところにペルーから遊びに来た子どもが事故で脳死状態になったのです。子どもを何とかしてほしいと狂乱する家族をなぐさめながら病院を探し対応に奔走しました。その時、私は妊娠8ヶ月で、この出産・子育てのため退社するのですが、その後もボランティア通訳や家庭教師、よろず相談にのったりと日系人との付き合いは続いていました。
 
2、「出稼ぎ」から定住化へと変容する日系人
当時は彼らも出稼ぎ目的ですから子供連れで来る人はなく、また来日後二、三年での帰国を考えていました。現実には、当初の予定通りに二、三年で帰国した人たちあり、また日本に舞い戻ってきた人々ありです。本国に帰っても生活は安定せず、日本で働けば本国の何十倍ものお金が稼げるとあって、次第に定住する人たちが増えてきました。また在留資格の更新についても期限がなく、さらに永住ビザの申請条件の緩和も定住、永住する人たちを加速させました。
定住化傾向になると本国に残してきた家族を呼び寄せるようになりました。そこでまた新たな問題が様々出てきます。社会保障の問題、保険、とりわけ健康保険や年金、そして子どもたちの教育問題です。
 
 
3、問題だらけ、深刻な子供の教育問題
子どもが小さい頃は、それほど問題は大きくないのですが、子どもが小学校に入学する頃になると一気に問題の山が立ちはだかります。まずは、二つの選択肢を迫られます。その一つが、子どもを本国に返し母語での教育を受けさせるということです。この場合、子供だけ帰国させ両親は引き続き日本で仕事をするのがほとんどで、子どもは親戚に預けられることになります。小中学校の一番親とのかかわり、特に母親とのかかわりが大事な時期に親子が離れ離れになってしまうのです。何年も離れていれば親子関係は希薄になり、中には「親に捨てられた」と親を恨む子どもまで出てきました。当校での例では、8年ぶりにペルーから両親の元へやってきて、母親をお母さんと呼べない子どもがいました。また、親の方も長く手放していた後ろめたさから躾をできず、なんともギクシャクした親子関係に親子双方が悩んでいました。
 他方、両親と日本に残り日本の公立学校に入学することを選択した場合、ほとんど日本語が話せない両親の下で育った子どもにとって、日本語は全くの外国語です。子どもは、「日本語という外国語」で学習しなければならないのです。例えば、逆に私たちが突然ペルーやブラジルの学校に入れられたことを想像してみてください。スペイン語やポルトガル語でペラペラ進められる授業がわかりますか。「頭には自信がある」とおっしゃる方でも理解するのは難しいのではないでしょうか。日本にきた日系人の子どもたちも同じです。言葉がわからないため授業が理解できず、ほとんど身につかないという大問題が生じます。公立学校で日本語のシャワーを浴び、日常会話ができるようになっても依然として「勉強はさっぱり」という気の毒な状態です。なぜなら、学習上必要な学習言語能力が全く育っていかないからです。その子どもの能力ではなく、言葉の壁で学業不振に陥るのです。
また、同級生である日本人の子供たちとの文化、習慣、言葉の違いから、圧倒的少数派の日系人の子どもたちは「いじめ」にあう例も少なくなかったのです。実際当校に日本の学校から転入してきた子どものほとんどが、「いじめられた」経験をもっています。「いじめ」にあったり、学習不振におちいり公立学校から離れていく子供も少なくなかったのです。運よく中学までいても高校進学できるのはわずかな子供たちだけです。その多くは進学をあきらめ就職するようになります。早くに働きだした子どもたちの中には、非行に走る子どもも少なくなくなかったのです。さらに不幸なケースは、親子の会話が成り立たなくなることです。日本の学校に通う場合、親がよほど家庭において意識的積極的に母語を教えていかないと母語を喪失し、親と子が普通の会話すら出来なくなってしまいます。一般的には想像しにくいと思いますが、家庭内で、しかも親子間で言語の壁が生じるのです。コミュニケーション手段の乏しい親子は、互いに理解しにくくなり、それは悲しい状況です。
 
 
4.ムンド デ アレグリア学校設立のきっかけ
 2002年10月、在東京ペルー総領事館が後援する教育フォーラムが、ペルー人の集住都市である東京都町田市と静岡県浜松市において開かれました。本国ペルーの学校の教師たちが「日本に出稼ぎに行っている親たちの子どもが大変だ。帰国しても学校の勉強についていけないから何とかしてほしい。出稼ぎに行っている親たちの教育をしてほしい」とペルー本国の教育省に陳情したからです。それは、日本に出稼ぎに来ている親たちの多くが子供の教育にあまり関心を持たず、どうせ帰国するのだから、と学校に行かせなかったり、家で下の子の子守をさせたりする例もありました。その親たちを教育するために、ペルー教育省から人が送り込まれました。子供の教育にもっと関心を持ち、子供の将来を閉ざさないようにと。
当時、私自身、子育て真最中でした。ボランティアで領事館の仕事をお手伝いしていたこともあり、その教育フォーラムのボランティアスタッフになりました。町田でのフォーラムで、私は在日日系人の子どもたちの教育問題が深刻であることを知り衝撃をうけました。浜松市でのフォーラムへ、以前関わりのあった日系人たちにぜひ来てもらいたいと思い、昔の手帳を見て知り合いに片端から電話しました。そして集まってきた懐かしい人々。再会を喜ぶのもつかの間、出席していた人々が子どもの教育上の悩みを切々と訴えるのです。「子どもが日本の学校に行っているが、日本語がわからないから授業中じっとしているだけ。かわいそうだ」「学校でいじめられて家からでなくなった」「学校のことが親にはさっぱりわからない」「日本語ができないから学校の先生に相談できない」等々、話は止まりません。
そして、「マサミさん、学校を作ってくれないか。母語で学べる学校があれば助かる。日本は閉鎖的だから私たち外国人だけでは何もできないのです」と涙ながらに言うのです。私は、驚きました。そして、困りました。教員免許は持っていましたが、学校をつくるなどということは考えたこともありませんでした。「普通の主婦」が、そのようなことを考えないでしょう。どうしたものか。
それが、程なくこのムンド デ アレグリア学校を産むこととなるとは、そのときの私自身想像もしていませんでした。人生って、どこでどうなるか、わからないものですね。
 
 
5.設立から認可までの道のり
 2003年2月開校から現在までの道のりは、とても言葉では言い表せません。私は開校にあたり、この事業は行政が携わるべきものであるから行政側からの支援が受けられるものと勝手に期待していました。今思い起こせば、子どもたちへの情が先走り、全く無知のまま考えなしに開校してしまったと言えます。逆に、あれこれ心配し考えていたら永遠に開校はできなかったでしょうが。
厳しい現実は待ったなしにきました。まず、開校しようにも場所がないのです。日本の学校では学習困難な子どもたちを引き受け教育するのだから、当然公民館や空いている公共施設を使わせてもらえるだろうと安易に考えていました。ところが、市にお願いに行けば、「私塾には貸せない」とのこと。あえなく期待ははずれ、今度は不動産会社へ。こちらでは「外国人」と口にしたらもう「お断り」です。何軒回ったでしょうか。「外国人を集める」など、「とんでもないこと」であると思い知らされ途方にくれていたとき、やっと知人の知人の知人の紹介で卸商団地の古い事務所跡に辿り着けたのです。しかしこの卸商団地というのは組合があり、そこの合意をとりつけないと入ることはできません。以前、他の外国人学校が断られたことを聞いていたので、容易ではないと思いましたが、粘り強く説明し理解を求めました。そして、校長が日本人の私で、私が問題が起きた場合の一切の責任をとることを約束し、保証人も日本人の両親がなることで組合人になることが認められ、ようやく校舎の確保ができたのでした。不安がる年金暮らしの老親を拝み倒して保証人にしたのでした。
「出稼ぎ教師」を採用し、なんとか体制を整えたのは、フォーラム開催から僅か1ヶ月半のことでした。
開校説明会には50家族ほどがきましたが、入学したのは13名。あれほど希望した人たちは入学せず、狐につつまれたようでした。粗末な校舎で信用されなかったのかもしれません。たった13名。目算では50名でした。
なにはともあれ13名の生徒でスタートしました。当時、月謝は給食費、教材費、送迎費込みで4万6千円でした。私を除いたスタッフ4名の給料、家賃・光熱費他経費を考えたら、難しい計算は必要ありません。誰が計算しても赤字。私は当時横浜在住で、毎日横浜から通ってきましたが、無給の上、預金を取り崩して赤字を埋めていました。いくら足りないのか、毎月月末になると胃が痛くなりました。私個人の預金などたかがしれています。保険の解約もして教師、運転手、スタッフの給料を払いました。「一人でも多くの子どもに学ぶ歓びを知ってほしい」と勇んで開いたムンド デ アレグリアでしたが、月謝が高いため、それが叶いません。それに金策にも疲れ、私自身、意義を見失いそうになることさえありました。それでも私を横浜から浜松の学校に向かわせたのは子どもたちの笑顔でした。楽しそうに通ってくる子どもたちにの姿、それを見つめる幸せそうな親の目。私は自分自身を叱咤激励しました。
「月謝を下げること」、これが至上命令でした。兄弟姉妹の多い南米系日系人に一人4万6千円の月謝は重すぎます。月謝を下げなければ生徒は増えない、月謝を下げるために公的支援を受けたいと思いました。
公的支援を受けるには、当校が公的認可を受ける必要があります。私は、文科省、静岡県、浜松市へと何度も何度も足を運びました。しかし、認可されるには法律の壁が高く立ちはだかります。各種学校認可条件には「自前の校地校舎でなければいけない」という項目があります。家賃の支払いに四苦八苦の状態の身には、「自前の校地校舎」など夢物語です。認可はほぼ不可能だと思われました。その間、約60名の生徒が月謝を払えず辞めていきましたが、それを唇を噛んで見送るしかありませんでした。「この子たちはどうなるんだろう」と、やめて行く子どもの先行きを思うと、涙がでました。
 文科省に相談に行った際、「自前の校地校舎でなくても認可されることができるから、許認可権のある自治体に行きなさい」と言われ、許認可権のある県に行けば「自前の校地校舎でないといけない」の一点張り。認可に必要な書類さえ手にすることができないのでした。まるで出口のないトンネルの中で一人もがいているようでした。絶望的と思われる中で、唯一の支えは親身になってくださった浜松市国際課(当時は国際室)でした。
2004年4月、私たちが内閣府よりNPO法人格を取得した同じ頃、浜松市国際課の尽力のお陰で静岡県が認可基準である「自前の校地校舎でなければならない」という条件を緩和してくれました。これは静岡県独自の判断で、「静岡方式」と呼ばれることになります。それにより私たちは、2004年5月各種学校認可を申請し、2004年12月南米系外国人学校としては全国で初めて各種学校の認可を受けました。設立以来約2年、ようやく月謝を下げることが出来、一人でも多くの子供たちを受け入れることが出来ると、どれだけ嬉しかったことか。
 
閉校決意と起死回生
喜んだのも束の間、市からの補助金が年額145万との連絡を受けました。月額の間違いではないかと耳を疑いました。当時、国の緊急支援策で、浜松市で「カナリーニョ教室」という外国人不就学児童のための教室を開いていましたが、午後から週3回のこの教室に2000万円が投じられていると聞いていたからです。私のところは毎日8時間も子どもたちを預かり教育しているのだから、同じくらいの支援が届くものと期待していたのです。少なくても1000千万円くらいと。145万円では、それまでの赤字経営状況の中で、月謝を一人1000円下げるのがやっとです。私たちが望んでいた一万円台に下げることは到底不可能で、これでは生徒数の増加は見込めません。これ以上継続は無理だと思いました。思いたくなくても現実的に無理でした。先に道はありません。閉校を決心。それが2005年1月、在籍生徒14名の時でした。
閉校するにあたり、私はこれまで有形無形の支援を頂いた方々に経緯を説明するとともに感謝の気持ちを綴りご挨拶しました。それが、ある企業のトップの方に伝わりました。それまで私たちがやってきたことを評価してくださり、無に帰すべきではない、と地元企業に働きかけをして下さいました。そして、2005年3月、地元企業53社から2000万円の寄付が決まったのです。地獄に仏をみた、と思いました。この支援により私たちの念願が叶いました。半額以下の月謝を実現することができ、14名だった生徒が一ヶ月後に50名となり、2005年8月学校法人の認可を受けることとなりました。
 
6、そして今
2010年1月、当校は市町村合併で使用しなくなった旧町役場跡に移転しました。浜松市が1階に「外国人学習支援センター」を開設、その2階部分を学校施設に改装して当校に貸してくれたのです。当校のような外国人学校が公的施設を校舎に借用するのは全国でも初めてのことです。これは外国人集住地である浜松市の異文化共生施策の先進性といえましょう。同時に、当校が実践してきた教育、その社会的意義を評価していただいたものと自負するとともに、更にその役割を担う責任も強く感じています。現在最大の課題は経営の安定です。日系人の置かれている経済状況から授業料の低額維持は必須で、当校では月謝収入だけでは経営は立ち行かないのが現状です。ここ数年、半分を企業の寄付に頼ってきましたが、それも昨今の世界的な経済不況の影響で激減し、厳しい状況です。更なる自助l努力をするとともに、公的援助と、寄付する企業の税制上の優遇措置を求めるとともに、皆さまからのご支援をお願いするものです。一人でも多くの子どもたちを学ぶ歓びの世界へ。
 
学校法人 ムンド・デ・アレグリア
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