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メッセージ

ムンド デ アレグリア学校の挑戦

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”どうして、あなたが外国人学校をつくったの?”
初めて会う人に決まって聞かれることです。私が日本人だからです。
その問いにお答えします。


                             
1、はじめに
 
2月6日、私はまた、この特別な日をムンド デ アレグリア学校の校長として迎えることができました。古い事務所跡に数名のスタッフとともに立ち、13名のペルー人の子どもたちを迎えて走り始めた、希望と不安に震えたあの日。あれから山あり谷ありの難コースを、向かい風あり嵐ありの中、子どもたちの手を引いて、時に追い風に助けられ走り続けて2010年2月6日、丸7年です。今、約100名の元気な声が新しい校舎に響いています。この子たちの手を離してはいけない、創立7周年を迎え、私はさらにこの手に力を込めるのです。
「どうして、あなたが外国人学校をつくったの?」私が、初めて会う人に決まって聞かれることです。私が日本人だからです。その問いにお答えしながら、ムンド デ アレグリア学校設立の経緯、現況、抱える問題、克服の闘い、目指す先、望みについて述べます。
 
 
2、日系人との出会い
 
私は、1991年静岡県浜松市の大手自動車メーカーに入社しました。そこで人事部採用課に配属され、日系人の採用担当兼通訳の仕事をするようになったのが、日系人との最初の出会いです。
周知の通り、1990年、日本は入管法を改正し中南米の日系二世三世に労働できる合法的な在留資格を与えました。当時日本は恒常的な人手不足、一方中南米は経済不安にあったため、多くの日系二世三世たちが、「稼げる国、日本」に押し寄せてきました。
その頃、私の勤める自動車メーカーでも人手不足でした。日本はバブル期の増産体制で、企業が労働者を奪い合うような状況でした。全国的に募集する期間工の採用もままならず、高校新卒者たちの定着率は低い。このような状況の中、定着率のいい、長期勤務可能な人材確保が急務であり、ペルー、ブラジルから日系人を直接雇用することになりました。
私たち採用チームは、空港での出迎えから仕事の内容、日常生活すべてを担当することになりました。やってきた日系人(日本人の子そして子の子)は「顔付きは日本人」であっても彼らは外国人でした。片言でも日本語を話せる人はわずかで、ましてや日本社会、その習慣についての知識はゼロに等しいのです。私の仕事の大半は、日本のルールを教え、いかに日本の生活に慣れ、仕事をしてもらうか、つまり日常のトラブル処理や悩み事の相談にのる何でも屋でした。休日も何もありません。「マサミ!マサミ!」の電話は鳴り、その度に私は飛んで行きました。その中に、忘れられない不幸な出来事もありました。出稼ぎの父親を訪ねてペルーから遊びに来た子どもが、事故で脳死状態になったのです。私は、当時妊娠8ヶ月のお腹を抱えて、子どもを救えと狂乱する家族を慰めながら奔走しました。結局亡くなり遺体を空輸、帰国させた、悲しい思い出です。
私は、その後子育てのため退社するのですが、退社後もボランティア通訳をしたり家庭教師をしたり、相談にのったりで日系人との付き合いは続いていました。
 
 
3.浮上する深刻な子供の教育問題
 
当時は、来日した日系人たちも出稼ぎ目的ですから、2~3年での帰国を考え、子連れで来る人はありませんでした。その後本国に帰っても生活が安定せず、日本で働けば本国の何10倍ものお金が稼げるとあって、一旦帰国しても再来日、次第に定住する人たちが増えてきました。また在留資格の更新についても期限がなく、さらに永住ビザの申請条件の緩和も、定住や永住する人たちを加速させました。
定住傾向になる人たちが増えてくると、本国に残してきた子供を呼び寄せるようになりました。子どもが小さい頃は、まだよいとしても、学齢期に達すると問題は深刻化してきます。子どもが小学校に入学する頃になると二つの選択肢を迫られます。まずその一つが、子どもを本国に返し母語での教育を受けさせるということです。この場合、子供だけ帰国させ両親は引き続き日本で仕事をするのがほとんどで、子どもは親戚に預けられることになります。一番親とのかかわり、特に母親とのかかわりが大事な小中学校の時期に親子が離れ離れになってしまうのです。何年も離れていれば親子関係は希薄になり、中には「親に捨てられた」と親を恨む子どもまで出てきました。当校での例では、8年ぶりにペルーから両親の元へやってきて、母親をお母さんと呼べない子どもがいました。また、親の方も長く手放していた後ろめたさから躾けもできず、なんともギクシャクした親子関係に親子双方が悩んでいました。
他方、両親と日本に残り日本の公立学校に入学します。この場合、両親はほとんど日本語が話せず親子とも日本語は全くの外国語ですから、子どもは、「日本語という外国語」で学習しなければなりません。たとえば私たちがロシア語で授業する教室にポンと入れられたことを想像したらどうでしょう。授業が理解できるはずがありません。精神的な大混乱は容易に想像がつきます。これは大問題です。少し日常会話ができるようになっても学習上必要な学習言語能力は全く育っていない状況があり、「日本語はぺらぺらなのに勉強はさっぱり!」と学習能力がないかのように「誤解」されます。その子どもの能力ではなく、言葉の壁で学業不振に陥るのです。また、同級生である日本人の子供たちとの文化、習慣、言葉の違いから、圧倒的少数派の日系人の子どもたちは「いじめ」にあう例も少なくなかったのです。実際当校に日本の学校から転入してきた子どものほとんどが、「いじめられた」経験をもっています。「いじめ」にあったり、学習不振におちいり公立学校から離れていく子どもも少なくなかったのです。運よく中学までいても高校進学できるのはわずかな子供たちだけです。その多くは進学を諦め就職するようになります。早くに働きだした子どもたちの中には、非行に走る子どもも少なくなくなかったのです。さらに不幸なケースは、親子の会話が成り立たなくなることです。日本の学校に通う場合、親がよほど家庭において意識的積極的に母語を教えていかないと子どもは母語を喪失し、親と子が日常的な会話すら出来なくなってしまいます。一般的には想像しにくいと思いますが、家庭内で、しかも親子間で言語の壁が生じるのです。親子間共通言語の喪失です。コミュニケーション手段の乏しい親子は、互いに理解しにくくフラストレーションは溜まり、それは悲しい状況です
 
 
4.ムンド デ アレグリア学校設立のきっかけ
 
日系人の子どもたちが先のような状況にあることは知らずに子育てをしている私に、かねてより親交のあったペルー領事館の総領事から教育フォーラムを開催するので手伝ってほしいと要請がありました。私は快諾しボランティアスタッフになりました。
2002年10月、在東京ペルー総領事館が後援する教育フォーラムが、ペルー人の集住都市である東京都町田市と静岡県浜松市において開かれました。本国ペルーの学校の教師たちが「日本に出稼ぎに行っている親たちの子どもが大変だ。帰国しても学校の勉強についていけないから何とかしてほしい。出稼ぎに行っている親たちの教育をしてほしい」とペルー本国の教育省に陳情したからです。日本に出稼ぎに来ている親たちの中には子供の教育にあまり関心を持たず、「どうせ帰国するのだから学校に行かせてもしようがない」と放置したり、保育費節約のため下の子の子守をさせ家に留め置いたりする親もいたのです。そのような親たちを教育するためにペルー教育省から人が送り込まれたのでした。子どもの教育にもっと関心を持たせ、子どもの将来を閉ざさないように、です。私はこのシンポジウムで、在日日系人の子どもたちの教育問題が、想像以上に深刻であることを知って衝撃を受けました。
町田市のシンポジウムが終わったあと、私は浜松時代の、就学児童をもつ知り合いのペルー人に片端から電話をかけ、浜松でのシンポジウムへの参加をよびかけました。かけつけてくれた懐かしい顔、顔、顔。そして、フォーラムの後です。保護者たちから子どもの教育上の悩みが、堰を切ったように出てくるのです。「日本の学校では日本語がわからないから勉強についていけない」「学校でいじめられた話を聞いて心配でやれない」「日本の学校にやっても日本語がわからないから学校の様子が全然わからない」「日本の学校で日本語ができるようになったら、母国語ができなくなり子どもと話ができなくなった。帰国後が困る」「国の親戚に子どもを預けてきたが、会えずに寂しい」
そして、「マツモトサン、学校を作ってくれないか。母語で学べる学校があれば、子どもたちは助かる。日本は閉鎖的で外国人だけでは何もできない」と、涙ながらに懇願するのです。事態は思わぬ  方向を向いていました。私は、困りました。どうしたものか。 
それが、程なくこのムンド デ アレグリア学校を産むこととなるのですが。
 
 
5.設立から認可まで
 
2003年2月開校から現在までの道のりは、とても言葉では言い表せません。私は開校にあたり、この事業は行政が携わるべきものであるから行政側からの支援が受けられるものと期待していました。当校も、日本の学校では言葉の壁で就学困難な児童生徒を受け入れ教育するのだから、公民館や空いている市の施設を使えるものと安易に思っていました。お願いしたところ、「私塾」には貸せないとのこと。
今思い起こせば、子どもたちの窮状に血がのぼり、全く無知のまま考えなしに開校してしまったと言えます。逆に、あれこれ考えていたら開校はできなかったでしょう。
直ぐに冷厳な現実はきました。まず、開校しようにも場所の確保ができないのです。「外国人」というだけで「お断り」です。しかも「集まる」のですから。何軒不動産会社を当ったでしょうか。「知り合いの知り合いの知り合い」の紹介する不動産会社から、古い空き事務所にようやく辿り着くことができました。
教師は、資金がないため本国からの採用はできず、「出稼ぎ」で来日している教師を確保しました。シンポジウム開催から1ヶ月半というスピードです。
次に肝心の生徒です。開校説明会には50家族ほどがきましたが、入学したのは13名。蓋を開ければ、あれほど懇願した保護者が子どもを入学させないのには、落胆というより驚きました。それが「ペルー人気質」と語るペルー人保護者もいましたが、私にはわかりません。校舎は粗末だし、信用を得られなかったのでしょう。
とはいえ、13人の生徒でスタートするしかありません。当時、月謝は授業料、給食費、教材費、送迎費合わせて4万6千円。スタッフは教師2人、送迎運転手1人、ペルー人職員1人でそれぞれの給料と学校の賃貸料、光熱費他の経費がかかります。私自身は人件費節約のため、送迎、給食の配膳、日本語教師、掃除とできることは何でもやりました。しかし、どう考えても、誰が考えても赤字です。毎月、月末になると残高の減っていく私個人の預金通帳を見ながら暗澹とした思いでした。「一人でも多くの子どもに教育を」と熱くなり勢いで開いた学校でしたが、授業料を下げることができないため、当初の目的が達せられません。襲ってくる非力感、無力感。私は、自分の作った学校へ行くのが憂鬱になりました。4万6千円の月謝は、兄弟姉妹の多い日系人には、重すぎる教育費でした。
「月謝を下げること」、これが至上命令でした。しかし、私塾のカテゴリーにしか入らない当校は、どこからも補助金はなく赤字はふくらむ一方。自分の貯金を切り崩し、2年以上無給で横浜の自宅から通いながら、とにかく公的認可をとって助成金を受けようと考えました。
私は、文科省、静岡県、浜松市へと何度も何度も相談に足を運びました。しかし、公的支援を受けるには公的認可が必要で、認可されるためには法律の壁が厚く、暗く長いトンネルの中でもがいているようでした。各種学校認可条件は「自前の校地校舎でなければいけない」ということで、「自前」の項目により、認可はほぼ不可能だと思われました。しかし、文科省に相談に行った際に「現行法で認可については問題ない。自前の校地校舎でなくても認可されることができるから、許認可権のある自治体にいきなさい」と言われました。そして許認可権のある県に行けば「学校認可には経営の安定のためには自前の校地・校舎でないといけない」との一点張りで、どうにもこうにも認可に必要な書類さえ教えてもらうことができないのでした。絶望的と思われる中、唯一の支えは浜松市国際課(当時は国際室)でした。その間、約60名の生徒が月謝を払えず辞めていきましたが、それを唇を噛んで見送るしかありませんでした。「この子たちはどうなるんだろう」と、やめて行く子どもの先行きを思うと、涙がでました。
2004年1月、国際課から、県が認可にかかわるヒヤリングをしてくれるとの朗報がとどきました。1月21日、私は国際課の職員たちと県へ出向き、そこで初めて認可に必要な書類を教えてもらい、静岡県独自の認可基準を検討中だと聞きました。そして、その年の3月、静岡県が、自前の校地・校舎でなくとも学校の存在する市町村が推薦する学校であれば認可できる、との「静岡方式」を発表しました。おりしも、私塾を脱するために申請していたNPO法人の認可が内閣府からおりた時期でした。それにより私たちは、2004年5月各種学校認可を申請し、2004年12月南米系外国人学校としては全国で初めて各種学校の認可を受けました。設立以来約2年、ようやく月謝を下げることが出来、一人でも多くの子供たちを受け入れることが出来ると欣喜雀躍しました。
 
 
6、断腸の思いで閉校決意、そして救われるまで
 
各種学校認可の興奮冷めやらぬ私に、耳を疑う知らせが飛び込んできました。市からの補助金は年額145万というのです。桁が違うのではないかと思いました。当時、国の緊急施策で浜松市では、カナリーニョ教室という、外国人の不就学児童のための教室を開いていましたが、午後から数時間週3回のこの教室に2000万円が投じられていることを聞いていたからです。毎日約8時間の当校には1000万くらいの支援が得られるものと期待していたのです。気持ちは一気に急降下です。その金額では、月謝を1人千円下げるのがやっとです。私たちが望んでいた1万円台に下げることは不可能。月謝を下げることができなければ生徒数の増加は見込めません。蓄積した赤字額を考えると、これ以上学校の継続は無理。先に道はなく、断腸の思いで、閉校することを決心しました。それが2005年1月、在籍生徒数14名の時でした。
閉校にあたり、私は、これまで有形無形の支援を頂いた方々に事情の説明とこれまでの感謝の気持ちを綴りご挨拶しました。それが、ある企業のトップの方に伝わったのです。そして、それまで私たちがやってきたことを無に帰すべきではない、と直ちに地元企業に働きかけをして下さいました。
そして、2005年3月、地元企業53社から2000万円の寄付が決まったのです。私は、地獄に仏をみた、と思いました。この支援により私たちは月謝を念願の半額以下に下げることができ、14名だった生徒が月謝を下げた3月末には50名となりました。その後も生徒数は増加し、2005年8月学校法人の認可を受けることとなりました。 
 
 
7.当校の現状と抱える問題 
 
今年2010年1月、当校は移転しました。市町村合併で使用しなくなった旧町役場を浜松市が改装、1階に「外国人学習支援センター」を開設、2階を学校施設にして当校に貸してくれたのです。外国人学校が公的施設を校舎に使用するのは全国初のことで、浜松市の異文化共生施策にかける意気込みといえましょう。それまでの校舎はそれは貧しいものでした。古く床は一部はがれ、遊び場もなく、子どもたちは昼休みに階段の踊り場や玄関先のわずかな空間にひしめいて遊んでいました。壁を仕切ったにわか作りの窓もない教室、移動するたびに机の角に腰をぶつける狭い教室、十分な数のトイレも手洗い場も、職員室もなく、ないないづくしでした。今、大きな窓から燦燦と陽が差し込む広々とした校舎で、子どもたちの笑顔がいっそう輝いています。悲願であった校舎問題はここに解決をみました。
現在、在籍生徒数は約100名。月謝は幼稚園、小学生が15000円、中学、高校生は20000円です。外国人学校としては相場の半額以下で、さらに保護者の失業などで授業料免除、減額としている児童生徒も数十人います。この月謝の額でも、公立小中学校と比べれば高額で、昨今の不況の中、去っていく児童生徒を止められません。新入生と、帰国や転校生の転出入で、生徒は常に流動的です。帳簿は毎月150万ほどの赤字を計上し、地元企業からの寄付で何とかしのいでいる状況です。
先に地元企業より起死回生のご支援を得たことを述べましたが、これは3年間の約束でした。その間に、学校法人の認可を受け、また自助努力で自立するはずでしたが、世界的な経済不況の風が身辺にも及び、保護者の失業が続出し、また公的援助もいまだ到底足りず、困難な状況です。学校法人認可を受けたものの助成金は県と市合わせても日本の学校への補助金には遠く及ばず、低価格の月謝を維持して赤字は募り、立ち行かないからです。地元企業からは2年間延長して支援を受けましたが、企業の事情も変わり2009年度の寄付金は5分の1になりました。この企業からの寄付を集めるのに障害となるのが企業側が税金の控除を見込めないことです。障害を除くには特定公益増進法人として認可される必要があり、企業のトップを筆頭者に文科省へ陳情も重ねています。同時に、「1条校と同額」の補助金の陳情も、同じく経済人の方々とともに文科省へしています。
自ら無駄な電気を消して歩くなど節約に節約を重ね運営をしていますが、到底そのようなもので追いつくはずはなく、この不安定な経営、財政難を改善するのが現在当校最大の課題です。
 
 
8.ムンド デ アレグリア学校の目指すところ
 
私たちの教育の先には、誇りと自信をもち、自分の将来に大きな夢を描く子どもたち、その夢に向かい困難を自分の力で乗り越え夢を実現させる子どもたちがいます。そして、子どもたちが様々な分野で活躍し、また日本とペルー、日本とブラジルの架け橋となり国際社会の担い手に育つこと、そして「日本にきてよかった」「学校にきてよかった」と思ってもらえたら本望です。そして、そのチャンスを全ての子どもたちに与えることです。一人も街の片隅に置き去りにすることなく。
 
そのためには、私たちは今、何をなすべきか
 
子どもたちのアイデンティティーを確立し、子どもたちが生活する日本の言葉や文化・習慣を教えることです。
アイデンティティーの確立には母語が不可欠です。母語での教育による特長は、子どもを中心にして学校と親が両サイドからサポートできる、つまり一緒に、協力して子どもを教育することができることです。それは、学習の遅れや子どもの戸惑いや悩みにいち早く気づくことにもなります。日本語という、子どもたちにとっては外国語での学習の現場では、子どもの学習不振が言葉の問題によるものか、発達障害であるのかさえ、見分けることが困難である場合が多いのです。
また、母語は親と子どものつながり、つまり子どものルーツです。ルーツなくして子どもが親を尊敬し、親が子どもを育てることはできません。特に小中学校時期においては、子どもと親がぶつかりあいながら切磋琢磨して子どもも親も成長します。それは親と子どもの共通言語(母語)なくしては考えられません。ある警察官から聞いた話があります。非行で警察に連れてこられたブラジル人の子どもの親を呼び出した時に、子どもの指導について話そうにも親は日本語が分からず、指導を受けなければならない子どもに通訳をさせることもできず、また、子どもは日本語は話せるがポルトガル語がおぼつかないというので、結局その親は子どもを叱ることもできなかったと。
また、母語と同じくらい必要なのが日本語です。なぜなら、子どもたちが暮らしているのは日本であり、将来母国に帰るのか日本に残るのか明確なビジョンをもたない親が多いからです。子どもたちは不安定な環境にいますが、それだからこそ、いかなる状況でも道が開けるように導かなければなりません。
日本に残った時の進学も視野に入れなければならないのです。「日本語ができる」ことで進学の道も開け、子どもたちの将来の選択肢が広がります。環境が整わず「行けなくて行けない」のと環境があり個人の問題で「行けて行けない」のでは全く違うのです。「行けなくて行けない」状況から脱出させるための日本語教育にも力点をおきます。日本で高校、大学進学を目指し未来を開いてほしいからです。
そして日本語と合わせて必要なのが日本の文化・習慣の教育です。なぜなら、子どもたちは生きるために日本の社会の中で闘っていかなければならないからです。外国人のままで、外国人の「甘え」では日本社会で活躍できません。
志高く、夢に向かって進むように!
 
 
9、私たちの望み
 
たちは、子どもたちのために日本の学校と外国人学校との連携・協力が不可欠だと考えています。現実には、両者の間には法律の問題で大きな壁があり、子どもたちにとって必要な連携が出来ていません。子どもたちを守り育てたいという思いは、日本の学校も私たち外国人学校も同じであるのに残念でなりません。日本の学校でしか出来ないこと、外国人学校にしか出来ないことがあるのです。
例えば、在校生ペルー人中学3年生のS君を昨年11月に公立の中学校に転校させました。日本の定時制高校に進学させるためです。日本の高校に合格したら、昼は当校へ、夜は日本の高校へと両方に通い大学進学を目指します。
S君の兄のK君がこの方法で静岡県立大学に入りました。現在、国際関係学部国際関係学科政治経済コース2年生で、つい先日も学校に顔を出し、新年度からの所属ゼミを決めた話や将来国際金融部門に進むことを考えている話などをしてくれ、大学の春休みには学校の手伝いにくると言って帰りました。
弟のS君は小学校1、2年を公立学校で過ごし、教科学習が一段と難しくなる小学3年時に当校に転入してきました。公立学校で日本語のシャワーを浴び、生活言語としての日本語を身につけて、そして概念理解が高度に向かう時期に当校にきて母語教育を受け教科学習を習得していったのです。これは、兄のK君が証明しているように、バイリンガル育成の成功例といえます。
外国人学校で国語を強化することは難しいし、日本の学校での母語指導は限界があります。公立学校に在籍する外国人の子どもの学習習得度を見ながら、母語の強化が必要と思われたら外国人学校にバトンタッチ、またその逆もあり、と教育的配慮がなされ、子どもたちがどちらの学校へも必要に応じて行き来できますように柔軟な体制がとれることを切望します。今までのやり方では子どもたちの能力を法律の壁でつぶしているように見えます。餅は餅屋でお互いが持つ資源をもっと子どもたちのために有効活用することができたら、お互いの教育効果は格段に上がると確信します。
 
 
10、あとがき
 
創立7周年の日に、うれしい知らせがありました。
私には忘れられない元在校児童がいます。開校時小学5年生で入ってきたペルー人の男の子です。日本の学校からの転入組でした。暗い顔で入ってきた彼が、日を追うごとに元気になり、その生き生きとした変化ぶりが経営上の苦境に立つ私の励みでした。この子らのために学校を今つぶしてはならない、と自分を叱咤激励したものでした。しかし1年後、母親が出産のため働けなくなり学費を払えなくなったとやめて行きました。その時、その子が私に残して行った言葉、「先生、ぼくは日本の学校に行ったって座っているだけなんだよ。勉強はできないんだよ。ぼくは、ペルーでも日本でも外人っていわれるんだよ」が私の耳にこびりつきました。このような子どもをつくってはならない、そのために闘わなければならないと、その時心に誓ったのです。彼は、母語であるスペイン語も日本語も中途半端なセミリンガルでした。
なんと、その子からの電話でした。日本の中学を卒業するのだが、進学したいので松本校長先生の学校に行きたいとのこと。
ムンド デ アレグリア学校は、学ぶ場所であると同時に、外国人の子どもたちが安堵できる場所であってもほしいのです。
私の浅慮で無謀にも走りだしてしまったムンド デ アレグリア学校。走り出したら息が切れても、もう止まれない、中途リタイアはできません。しかし、走り続けていると、このような至福の時が度々やってくるのです。
「浅慮の功名」と背筋を伸ばし、これからも私は走り続けます。
 
 
                                校長  松本雅美
 
 
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