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メッセージ

どうしてあなたが外国人学校をつくったの?

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”どうして、あなたが外国人学校をつくったの?”
初めて会う人に決まって聞かれることです。それは私が日本人だからです。

 
校長松本雅美
1.私と日系人との出会い
 私は、1991年浜松市の大手自動車メーカーに入社しました。そこで日系人の採用担当兼通訳の仕事をするようになったのが、日系人との最初の出会いです。
 1990年、日本は入管法を改正し中南米の日系二世・三世に労働できる合法的な在留資格を与えました。当時日本は恒常的な人手不足、一方中南米は不安定な経済状態にあったため多くの日系二世・三世たちが、出稼ぎ目的で来日してきました。
その頃、私の勤める自動車メーカーでも人手不足でした。日本はバブル期の増産体制で、企業が労働者を奪い合うような状況でした。全国的に募集する期間工もなかなか採用ができない状況に加え、高校を卒業し入社してくる新卒者たちの定着率が低く、入社して一年以内で辞めていく人も少なくなかったのです。このような状況の中、定着率のいい、長く勤めてくれる人材を確保するのが急務であり、ペルー、ブラジルから日系人を直接採用することになりました。
 私たち採用チームは、空港での出迎えから仕事の内容、日常生活のすべてを担当することになりました。やってきた日系人(日本人の子そして子の子)は「顔つきは日本人」であっても日本語を話せる人はごくわずかで、ましてや日本の習慣はわからない「外国人」でした。ですから私たちの仕事の大半は、いかに日本の生活に慣れてもらい仕事をしてもらうか、という「生活サポート何でも屋」でした。「マサミさん、マサミさん」と電話は休日も容赦なく鳴り、そのたびに私は飛んでいきました。忘れることのできない悲しい出来事もありました。出稼ぎの親のところにペルーから遊びに来た子どもが事故で脳死状態になったのです。子どもを何とかしてほしいと狂乱する家族をなぐさめながら病院を探し対応に奔走しました。その時、私は妊娠8ヶ月で、この出産・子育てのため退社するのですが、その後もボランティア通訳や家庭教師、よろず相談にのったりと日系人との付き合いは続いていました。
 
2、「出稼ぎ」から定住化へと変容する日系人
当時は彼らも出稼ぎ目的ですから子供連れで来る人はなく、また来日後二、三年での帰国を考えていました。現実には、当初の予定通りに二、三年で帰国した人たちあり、また日本に舞い戻ってきた人々ありです。本国に帰っても生活は安定せず、日本で働けば本国の何十倍ものお金が稼げるとあって、次第に定住する人たちが増えてきました。また在留資格の更新についても期限がなく、さらに永住ビザの申請条件の緩和も定住、永住する人たちを加速させました。
定住化傾向になると本国に残してきた家族を呼び寄せるようになりました。そこでまた新たな問題が様々出てきます。社会保障の問題、保険、とりわけ健康保険や年金、そして子どもたちの教育問題です。
 
 
3、問題だらけ、深刻な子供の教育問題
子どもが小さい頃は、それほど問題は大きくないのですが、子どもが小学校に入学する頃になると一気に問題の山が立ちはだかります。まずは、二つの選択肢を迫られます。その一つが、子どもを本国に返し母語での教育を受けさせるということです。この場合、子供だけ帰国させ両親は引き続き日本で仕事をするのがほとんどで、子どもは親戚に預けられることになります。小中学校の一番親とのかかわり、特に母親とのかかわりが大事な時期に親子が離れ離れになってしまうのです。何年も離れていれば親子関係は希薄になり、中には「親に捨てられた」と親を恨む子どもまで出てきました。当校での例では、8年ぶりにペルーから両親の元へやってきて、母親をお母さんと呼べない子どもがいました。また、親の方も長く手放していた後ろめたさから躾をできず、なんともギクシャクした親子関係に親子双方が悩んでいました。
 他方、両親と日本に残り日本の公立学校に入学することを選択した場合、ほとんど日本語が話せない両親の下で育った子どもにとって、日本語は全くの外国語です。子どもは、「日本語という外国語」で学習しなければならないのです。例えば、逆に私たちが突然ペルーやブラジルの学校に入れられたことを想像してみてください。スペイン語やポルトガル語でペラペラ進められる授業がわかりますか。「頭には自信がある」とおっしゃる方でも理解するのは難しいのではないでしょうか。日本にきた日系人の子どもたちも同じです。言葉がわからないため授業が理解できず、ほとんど身につかないという大問題が生じます。公立学校で日本語のシャワーを浴び、日常会話ができるようになっても依然として「勉強はさっぱり」という気の毒な状態です。なぜなら、学習上必要な学習言語能力が全く育っていかないからです。その子どもの能力ではなく、言葉の壁で学業不振に陥るのです。
また、同級生である日本人の子供たちとの文化、習慣、言葉の違いから、圧倒的少数派の日系人の子どもたちは「いじめ」にあう例も少なくなかったのです。実際当校に日本の学校から転入してきた子どものほとんどが、「いじめられた」経験をもっています。「いじめ」にあったり、学習不振におちいり公立学校から離れていく子供も少なくなかったのです。運よく中学までいても高校進学できるのはわずかな子供たちだけです。その多くは進学をあきらめ就職するようになります。早くに働きだした子どもたちの中には、非行に走る子どもも少なくなくなかったのです。さらに不幸なケースは、親子の会話が成り立たなくなることです。日本の学校に通う場合、親がよほど家庭において意識的積極的に母語を教えていかないと母語を喪失し、親と子が普通の会話すら出来なくなってしまいます。一般的には想像しにくいと思いますが、家庭内で、しかも親子間で言語の壁が生じるのです。コミュニケーション手段の乏しい親子は、互いに理解しにくくなり、それは悲しい状況です。
 
 
4.ムンド デ アレグリア学校設立のきっかけ
 2002年10月、在東京ペルー総領事館が後援する教育フォーラムが、ペルー人の集住都市である東京都町田市と静岡県浜松市において開かれました。本国ペルーの学校の教師たちが「日本に出稼ぎに行っている親たちの子どもが大変だ。帰国しても学校の勉強についていけないから何とかしてほしい。出稼ぎに行っている親たちの教育をしてほしい」とペルー本国の教育省に陳情したからです。それは、日本に出稼ぎに来ている親たちの多くが子供の教育にあまり関心を持たず、どうせ帰国するのだから、と学校に行かせなかったり、家で下の子の子守をさせたりする例もありました。その親たちを教育するために、ペルー教育省から人が送り込まれました。子供の教育にもっと関心を持ち、子供の将来を閉ざさないようにと。
当時、私自身、子育て真最中でした。ボランティアで領事館の仕事をお手伝いしていたこともあり、その教育フォーラムのボランティアスタッフになりました。町田でのフォーラムで、私は在日日系人の子どもたちの教育問題が深刻であることを知り衝撃をうけました。浜松市でのフォーラムへ、以前関わりのあった日系人たちにぜひ来てもらいたいと思い、昔の手帳を見て知り合いに片端から電話しました。そして集まってきた懐かしい人々。再会を喜ぶのもつかの間、出席していた人々が子どもの教育上の悩みを切々と訴えるのです。「子どもが日本の学校に行っているが、日本語がわからないから授業中じっとしているだけ。かわいそうだ」「学校でいじめられて家からでなくなった」「学校のことが親にはさっぱりわからない」「日本語ができないから学校の先生に相談できない」等々、話は止まりません。
そして、「マサミさん、学校を作ってくれないか。母語で学べる学校があれば助かる。日本は閉鎖的だから私たち外国人だけでは何もできないのです」と涙ながらに言うのです。私は、驚きました。そして、困りました。教員免許は持っていましたが、学校をつくるなどということは考えたこともありませんでした。「普通の主婦」が、そのようなことを考えないでしょう。どうしたものか。
それが、程なくこのムンド デ アレグリア学校を産むこととなるとは、そのときの私自身想像もしていませんでした。人生って、どこでどうなるか、わからないものですね。
 
 
5.設立から認可までの道のり
 2003年2月開校から現在までの道のりは、とても言葉では言い表せません。私は開校にあたり、この事業は行政が携わるべきものであるから行政側からの支援が受けられるものと勝手に期待していました。今思い起こせば、子どもたちへの情が先走り、全く無知のまま考えなしに開校してしまったと言えます。逆に、あれこれ心配し考えていたら永遠に開校はできなかったでしょうが。
厳しい現実は待ったなしにきました。まず、開校しようにも場所がないのです。日本の学校では学習困難な子どもたちを引き受け教育するのだから、当然公民館や空いている公共施設を使わせてもらえるだろうと安易に考えていました。ところが、市にお願いに行けば、「私塾には貸せない」とのこと。あえなく期待ははずれ、今度は不動産会社へ。こちらでは「外国人」と口にしたらもう「お断り」です。何軒回ったでしょうか。「外国人を集める」など、「とんでもないこと」であると思い知らされ途方にくれていたとき、やっと知人の知人の知人の紹介で卸商団地の古い事務所跡に辿り着けたのです。しかしこの卸商団地というのは組合があり、そこの合意をとりつけないと入ることはできません。以前、他の外国人学校が断られたことを聞いていたので、容易ではないと思いましたが、粘り強く説明し理解を求めました。そして、校長が日本人の私で、私が問題が起きた場合の一切の責任をとることを約束し、保証人も日本人の両親がなることで組合人になることが認められ、ようやく校舎の確保ができたのでした。不安がる年金暮らしの老親を拝み倒して保証人にしたのでした。
「出稼ぎ教師」を採用し、なんとか体制を整えたのは、フォーラム開催から僅か1ヶ月半のことでした。
開校説明会には50家族ほどがきましたが、入学したのは13名。あれほど希望した人たちは入学せず、狐につつまれたようでした。粗末な校舎で信用されなかったのかもしれません。たった13名。目算では50名でした。
なにはともあれ13名の生徒でスタートしました。当時、月謝は給食費、教材費、送迎費込みで4万6千円でした。私を除いたスタッフ4名の給料、家賃・光熱費他経費を考えたら、難しい計算は必要ありません。誰が計算しても赤字。私は当時横浜在住で、毎日横浜から通ってきましたが、無給の上、預金を取り崩して赤字を埋めていました。いくら足りないのか、毎月月末になると胃が痛くなりました。私個人の預金などたかがしれています。保険の解約もして教師、運転手、スタッフの給料を払いました。「一人でも多くの子どもに学ぶ歓びを知ってほしい」と勇んで開いたムンド デ アレグリアでしたが、月謝が高いため、それが叶いません。それに金策にも疲れ、私自身、意義を見失いそうになることさえありました。それでも私を横浜から浜松の学校に向かわせたのは子どもたちの笑顔でした。楽しそうに通ってくる子どもたちにの姿、それを見つめる幸せそうな親の目。私は自分自身を叱咤激励しました。
「月謝を下げること」、これが至上命令でした。兄弟姉妹の多い南米系日系人に一人4万6千円の月謝は重すぎます。月謝を下げなければ生徒は増えない、月謝を下げるために公的支援を受けたいと思いました。
公的支援を受けるには、当校が公的認可を受ける必要があります。私は、文科省、静岡県、浜松市へと何度も何度も足を運びました。しかし、認可されるには法律の壁が高く立ちはだかります。各種学校認可条件には「自前の校地校舎でなければいけない」という項目があります。家賃の支払いに四苦八苦の状態の身には、「自前の校地校舎」など夢物語です。認可はほぼ不可能だと思われました。その間、約60名の生徒が月謝を払えず辞めていきましたが、それを唇を噛んで見送るしかありませんでした。「この子たちはどうなるんだろう」と、やめて行く子どもの先行きを思うと、涙がでました。
 文科省に相談に行った際、「自前の校地校舎でなくても認可されることができるから、許認可権のある自治体に行きなさい」と言われ、許認可権のある県に行けば「自前の校地校舎でないといけない」の一点張り。認可に必要な書類さえ手にすることができないのでした。まるで出口のないトンネルの中で一人もがいているようでした。絶望的と思われる中で、唯一の支えは親身になってくださった浜松市国際課(当時は国際室)でした。
2004年4月、私たちが内閣府よりNPO法人格を取得した同じ頃、浜松市国際課の尽力のお陰で静岡県が認可基準である「自前の校地校舎でなければならない」という条件を緩和してくれました。これは静岡県独自の判断で、「静岡方式」と呼ばれることになります。それにより私たちは、2004年5月各種学校認可を申請し、2004年12月南米系外国人学校としては全国で初めて各種学校の認可を受けました。設立以来約2年、ようやく月謝を下げることが出来、一人でも多くの子供たちを受け入れることが出来ると、どれだけ嬉しかったことか。
 
閉校決意と起死回生
喜んだのも束の間、市からの補助金が年額145万との連絡を受けました。月額の間違いではないかと耳を疑いました。当時、国の緊急支援策で、浜松市で「カナリーニョ教室」という外国人不就学児童のための教室を開いていましたが、午後から週3回のこの教室に2000万円が投じられていると聞いていたからです。私のところは毎日8時間も子どもたちを預かり教育しているのだから、同じくらいの支援が届くものと期待していたのです。少なくても1000千万円くらいと。145万円では、それまでの赤字経営状況の中で、月謝を一人1000円下げるのがやっとです。私たちが望んでいた一万円台に下げることは到底不可能で、これでは生徒数の増加は見込めません。これ以上継続は無理だと思いました。思いたくなくても現実的に無理でした。先に道はありません。閉校を決心。それが2005年1月、在籍生徒14名の時でした。
閉校するにあたり、私はこれまで有形無形の支援を頂いた方々に経緯を説明するとともに感謝の気持ちを綴りご挨拶しました。それが、ある企業のトップの方に伝わりました。それまで私たちがやってきたことを評価してくださり、無に帰すべきではない、と地元企業に働きかけをして下さいました。そして、2005年3月、地元企業53社から2000万円の寄付が決まったのです。地獄に仏をみた、と思いました。この支援により私たちの念願が叶いました。半額以下の月謝を実現することができ、14名だった生徒が一ヶ月後に50名となり、2005年8月学校法人の認可を受けることとなりました。
 
6、そして今
2010年1月、当校は市町村合併で使用しなくなった旧町役場跡に移転しました。浜松市が1階に「外国人学習支援センター」を開設、その2階部分を学校施設に改装して当校に貸してくれたのです。当校のような外国人学校が公的施設を校舎に借用するのは全国でも初めてのことです。これは外国人集住地である浜松市の異文化共生施策の先進性といえましょう。同時に、当校が実践してきた教育、その社会的意義を評価していただいたものと自負するとともに、更にその役割を担う責任も強く感じています。現在最大の課題は経営の安定です。日系人の置かれている経済状況から授業料の低額維持は必須で、当校では月謝収入だけでは経営は立ち行かないのが現状です。ここ数年、半分を企業の寄付に頼ってきましたが、それも昨今の世界的な経済不況の影響で激減し、厳しい状況です。更なる自助l努力をするとともに、公的援助と、寄付する企業の税制上の優遇措置を求めるとともに、皆さまからのご支援をお願いするものです。一人でも多くの子どもたちを学ぶ歓びの世界へ。
 
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